人が泣く,その行為が嫌いだ.
なんでこんな自分語りを唐突にはじめてしまったのかというと,久しぶりにそれを目の前で見てしまったからである.より正確に言うなら,結果的に私が泣かせたような構図になった.
一応,ベースラインで既にマイナスになっている私の名誉がこれ以上下がらないために言い訳だけさせてほしい.事が起きたのは学部生との混合の演習の授業での議論中のことだ.
久しぶりに実際に顔を合わせて議論をする中で,とある学部生がテーマと微妙に異なる分析を個人的にやってきて,その結果を翌週のグループとしての発表で用いるべきと主張をした.時間もない中で結論を出さなければならなかったので,それが如何にテーマからズレているかを淡々と説明した結果,泣かれた.
更に言い訳させてもらうと,その考え方について述べただけで人格を否定したわけでもなんでもない.個人的には泣き所がわからない.
泣くという行為は,逆転満塁サヨナラホームランだ.彼の涙腺が緩み,涙が我々の観測するところなるコンマ数秒前まで,私は悪者ではなかった.演習の取り組みについて意見を述べていただけだし,その合理性についても可能な限り説明していたつもりだ.
彼の涙が現れた瞬間,そんな中立性や合理性はどうでもよくなって,私が悪者になるのだ.そこに至る過程など,誰も気にしはしないのである.
泣くという行為は,それまでの文脈も何もかもを断ち切って,押されていた側が心理的に優位に立つ,禁断のカードなのである.
いや,それも少し違う.泣かせた側は悪者になる.かといって,泣いている本人からすれば,別に心理的に優位に立つわけでもないだろう.人前で泣くということ自体,積極的にしたいことではないはずだ.まともな人ならば.だから優位に立つわけではない.
それでも,周りはそんなことを気にするだろうか.あるいは気にしても尚,泣かせた側に対する心象を悪くし,やはり泣かせた側は悪者になるのだ.
見ている方も気分の良いものではない.憐れむべき涙と,泣かせた悪者と,そして何よりその結果生じる微妙な空気に.
だから,泣くという行為は何も生み出さない.無駄に悪者をつくって,みんなが不幸せになる.だから,泣くという行為は嫌いだ.
もっというと,本当に許せなかったのは自分自身なのだ.泣くという行為に何ら生産性を見いだせず,そして自分が悪いことをしたつもりもない.それなのに,ポロポロと涙を流す彼を前にして,私は罪悪感を抱いた.
泣かれた議論を終えて一人になった私を襲ったのは,泣かせたことへの謂れのなき罪悪感と,そして自分が悪いことをしたわけではないという思いと,そして謂れのない罪悪感を生み出す自分自身への怒りだった.
そして,ぐちゃぐちゃになって,勢いに任せてこの記事を書き出したのだった.
泣くという行為は嫌いだが,もっと嫌いなのは罪悪感を抱いた自分なのかもしれない.
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