2017/01/09

終わらないベビーカー論争の根っこにあるもの

 2017年の年開け早々、ネット上で大論争に発展したのが、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて大勢が集まる場所で初詣に参拝することの是非についてだ。それが障害者差別、少子化問題といったことにまで議論が広がっていった。
──「初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分」より引用(アクセス日:2017/01/09)

新年早々,乗蓮寺がベビーカーでの初詣の自粛要請を出したということで(主にネット上で)大騒ぎになった.

この要請に対し,恒例の”ベビーカー論争”が始まり,障害者差別の問題や,少子化の問題にまで飛び火して批判が展開された.

それに対し,「混雑しているところにベビーカーで入るのは周りの人にとっても赤ちゃんにとっても危ないだろう」といった反論もなされた.

この一連の議論は正直これまで行われてきた,例えば列車内でベビーカーを広げることへの賛否をなぞっているため,特に目新しいことではなかった.
今回の議論で面白いのは,そもそも寺側がベビーカー自粛を要請したきっかけが,どちらの立場にとっても予想外のものであったことだろう.

「初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分」によると,そもそもこのお寺はかつて,むしろベビーカーを優遇してすらいたという.
ベビーカーを優先してスロープのある通路から先に通すなどの配慮をしていた.

ところが,なんとそれに乗じて「ベビーカーさえあれば早く境内に入れる」と解釈した人たちが出現し,ベビーカーにゾロゾロと大人が大量に随行してみたり,もうベビーカーという歳ではない子供をベビーカーに載せるといった行動に出た.

そしてついに,ベビーカーに躓き転ぶ人が出るという事件が発生し,寺側はついにベビーカー使用の自粛要請に踏み切ったという.

騒動の当初,この展開を知っていた人は多くはないのではないかと思う.
隠されし真相が明らかになる前に寺を批判していた人の多くも含め(一部だんまりの奴もいるが……),この経緯が明らかになった今「ベビーカー利用者と周りの人達の双方がお互いに気をつかうべきだ」というのが大方の論調になったと思う.

……が,この手の議論は何度も繰り返されてきたわけで,「お互いに気を使うべき」などというお利口さんコメントで無難に〆たところで,半年もすれば似たような事件が起きて,似たような議論を繰り返すのがオチだろう.この問題自体は全く解決には進まない.

私自身もこの問題が直ぐに解決するとは思っていないが,今回の一連の騒動をきっかけとして,ベビーカー論争の根底にある原因を考えてみたいと思う.

これを考えようと思ったきっかけは,そもそもベビーカー論争が急に盛り上がり始めたのはここ数年のように思うのだが,それは何故か,ということである.
従って,まずは「ベビーカー論争」が発生しはじめた要因として,いくつかの仮説を掲げてみることにする.

権利意識の高まり

ここ数年,LGBTや移民といった問題がクローズアップされ,世界中でその権利が注目された.

「ベビーカー賛成派」の主張の一部は,こうした潮流の先にあって,「産後の移動の自由を保障せよ,そのためにはベビーカーが必要不可欠である」という論理に基づいている.

こうした考え方は,電車の中という環境下では,国によってある種のお墨付きを得た.
国土交通省は,電車の中では原則的にはベビーカーを広げたままで良いとする判断をした.

しかし,この権利意識だけでは「論争」は生まれない.例えば世間がそれを何の批判もなく受け入れたとするならば,そこに論争は生まれず,ベビーカーが当然に広げられる世界が実現するだけである.

その権利意識の先に「論争」が生まれたのは,その権利主張に対する反発があったからである.
では,その反発は何故生まれたのか?

「ベビーカー賛成派」の多くや,他の人権問題と絡めてこの問題を捉える人たちは,その根底にあるものを「不寛容」だと考えている.
現実的に,「こうあるべき」という綺麗事を取り除いて考えるなら,ベビーカーは物理的に邪魔である.ベビーカーに限らずとも,例えば公共の場での子供の騒ぎ声は物理的にうるさい.
しかし,それを許容できない世の中に問題がある,そういう論調である.

たいてい議論はここで止まっているように思うが,そもそもその「不寛容」は何故生まれたのだろうか.
これまで言われてきたそれは,例えば経済的な点などで「余裕」がなくなった人が増えたからといった理由であるが,私はそれだけに留まらないと思っている.

私はむしろその「権利意識」の使われ方に問題があるのだと思う.
誤解のないように強調するが,ベビーカーの問題を含め,乳幼児連れの「権利」は一定保証されるべきというのは正しいと思う.大いに結構である.

問題なのは,その権利行使がやや行き過ぎと捉えられるレベルにまで至ったことだと思う.

例えば上述の電車の例.
駅員バイトをやっているとしばしば見かける光景なのだが,朝の通勤時間帯のかなり混雑した列車に,ベビーカーを広げたまま無理矢理乗って行く親がいる.
これは正直に言うとかなり危ないと思ってみているのだが,上述のように国のお墨付きが出てしまった以上,「それをたため」とは言えない.それが,彼ら,彼女らの主張する権利であり,国が“認めた”権利だからである.

しかしそのベビーカーの回りにいる人は堪ったものではないだろう.
ただでさえ混雑して疲弊している中,ベビーカー(それも必要以上にデカイやつだったりする)が突っ込んできて,ぶつからないように気をつけなければならない.
それを強いられた人がベビーカーに対するヘイトを溜めるのも自然なことだと言える.
それは断じて彼らの「不寛容」なのではなく,当然に寛容できて,寛容すべきラインを超えてしまったからこその現象なのではないか.

かくして「論争」は生み出されるのではないか.
「権利意識」とその主張の先の,行き過ぎた権利主張によって作り出された“不寛容”が対立を生んでいる,私にはそう思えてならない.

行き過ぎた権利主張が先か,子連れに対する風当たりの強さが先か,どちらが先かは今となってはわからない.
それでもこの2つが悪循環となって,この論争は泥沼化の一途を辿っているように私には思えるのである.

東京一極集中

今回の騒動の発端は初詣だった.初詣は,まあ信心深さにもよるのだろうが,多くの人にとっては「どうしてもしなければならないこと」ではない.
だからこそ「そもそもそんな混雑のところに子供を連れて行くな」という意見も一理ある.

ところが,どうしても混雑している場に乳幼児を連れていかなければならないという状況も現実的にはあり得る.
自宅から都心へ,朝のうちに子供を連れていかなければならないとなると,混雑した列車を使うことは不可避であることが多い.

この状況の問題を環境側に置くのであれば,ひとつ目の考え方としては混雑した列車が悪いということになる.
特に大荷物でなくとも朝の通勤ラッシュは,まさに「痛勤」である.況や子連れをや.

となれば,この状況がベビーカー論争の要因の一つになっているとも考えることができて,その解決が必要である,ということになる.
ではどうするか.

結論から言うと,今のふざけ散らかした首都圏の通勤事情を改善することは,少なくとも鉄道側の施策で改善することはまず無理である.
現在の環境を所与のものとするならば,輸送力の増強なしに通勤事情の改善はありえないが,現状で線路容量は逼迫し,これ以上の大増発はほぼ不可能である.
首都東京は「2階建て列車」を提唱した首長を選んだ.他にも複々線化工事という手法もある.どちらも物理的に不可能というわけではないが,主に金銭的な理由から現実的には不可能である.

従って,上で所与とした条件自体の改善が求められることになる.
つまり,首都圏の人口,多すぎ.

振り返ってみれば,昔は地方で生まれた子供が地方で育ち,そして大都市圏に流入するというのが“典型的な”人生のひとつであった.この場合,子は地方で育てられていた.

しかし,大都市圏に流入した多くの大人は都市に残ることを選び,大都市圏の中で子育てが行われていく.
地方が人口減少に喘ぐ中,地方からの流入と大都市圏での再生産によって,特に首都圏の人口はじわりじわりと増え続けた.そして限界線を超えたのが現状なのではないか.

直近の課題として捉えるならば,人口の地方への分散が必要になる.
これは個人的には不可能であると思う.私自身,幼少期から十数年地方で暮らし,首都圏へ流れ戻った「流入組」の一人であるが,まあどう頑張っても地方が活性化するビジョンは見えない.
地方には絶望的なまでに仕事が無いから.

長期的なことを言うなら,これは自然に解消される問題と言えなくもない.
人口減少が進む今,そのうち都市圏の人口も減り始めるだろう.
それはそれで新たな問題とも言えるのだが,ある意味通勤環境の改善という問題は解決できるだろう.
いやそもそも,少子化が究極に進むと,子供がほとんどいなくなってこの問題が発生し得ないということもあり得るか.

“連れていかなければならない”

上で「朝のうちに子供を都心方面へ連れていかなければならないなら」と言ったが,そういう状況をなくすというのも解決策の一つになる.
これに限らず,乳幼児連れが混雑した場所に“いかなければならない”理由にどのようなものがあるかは,正直よくわかっていない.
それでももし,そうした理由が社会によって生み出されているものなのであれば,それを改善するというのが解決策の一つになりうる.

少子化の先に

「ベビーカー批判」への反論に,「言うても君が将来子連れになる可能性もあるんやで.未来の自分の首を締めることにもなりうるんやで.」というものがある.

どこかのCMが「可能性はゼロではない」と言っていた.
「ベビーカー批判」が「未来の自分批判」になる可能性もまた,ゼロではない.
その意味でこの反論は一理あるのだが,問題はその「可能性」がじわりじわりとゼロに近づいていることである.
未婚率が高まり,結婚しても子供がいないという家族形態も多く見られるようになって,「未来の自分批判」にあたる可能性が下がっている中,「自分は関係ない」と考える人が増えるのは自然だし,現に関係ない人が増えている.

子を社会全体の資産を捉え,だからこそ“寛容さ”が必要だとする論理もある.
例えば年金.電車の中で大騒ぎしてうるさい子供も,将来私達の年金を支えてくれるかもしれない!

……残念ながら,これも論理としては通るのだが,それが実現するのは社会全体で子供が増えていく風潮にある場合のみである.

自分が乗る混雑した列車にベビーカーが乗り込んでくるのを我慢したとしても,ベビーカーに足を轢かれるのを我慢しても,それで例えばもらえる年金が増えるか.答えは否だろう.

確かに子供は社会の資産かもしれない.社会保障制度を支えてくれるかもしれない.
しかし,それは全体が増加傾向になければ実現しない.少子化が進む中で,自分が特定の子連れに対して“寛容さ”を発揮したとしても,それは“寛容し損”になる可能性が非常に高い.

「なら自分が寛容さを示す必要なんてない」,その「自分」が大いなる集団レベルで形成されることが子供の社会全体での増加への道筋を妨げることになっても,さながら少子化という檻に囚われた囚人のジレンマのように,この悪循環を進んでいくしかない.

この解決策はなかなかに難しい.
経済状況が急激に改善して,子供がほしいけど経済的な理由で諦めていた人が子供をたくさん持てるようになるとか,移民を受け入れるとか,方法はともかくとして,まず人口を上向きに持っていくことができなければ,この要因の解決はあり得ないのではないか.

“差別”を越えた議論

ここまで,「ベビーカー論争」の根底にある要因として考えられるものをつらつらと考えてきた.
これらはただ私がそうではないかと思ったという仮説レベルのものでしかない.そして,それを実証する気もない.
気力に満ち溢れた人間でもないので,現状を打破するよう活動する気もない.

ただ,「ベビーカー邪魔なんじゃ消えろ」とか「不寛容」とか,ベビーカーを受け入れるか否かという表層レベルに留まった議論が目立つのが気になって,問題の構造という観点から議論をすべきなのではないかと思ったので,こう長々と書いてみたわけである.

この問題について議論することは社会的にも有意義だと思うのだが,この手の話題で例えば「行き過ぎた権利主張があるのではないか」などと現実で言った瞬間,女性差別だの何だのと,差別主義者のレッテルを貼られて社会的に死ぬ.
権利主張が悪いと言っているのではない.所謂「不寛容」が生み出される要因の一つとなっている可能性を指摘しているだけにすぎない.それでもなお,一部の表層にしか考えが及ばない人たちが「差別だ差別だ」と騒ぐから,現実での議論が進まない.これはこの問題に限ったことではない.

この問題は社会的に重大であると思うので,今回の騒動で「バズって」終わりということではなく,今後も様々な場所で議論が進んでいくことを望むばかりである.
そして叶うならば,その議論が表層レベルに留まることなく,かつ健全に進んでいってほしい.

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